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清涼寺(京都市)

立ち寄りSPOT

メモ

清凉寺について
本尊 赤栴檀の釈迦如来(国宝)
清凉寺は「源氏物語」の光源氏が造営した「嵯峨の御堂」に目される寺院です。それは清凉寺の本尊釈迦如来像が古来より多くの人々に信仰を集めてきたことに由来しています。
そのことはまた、「如来二伝のおんかたみのむつまじさに、嵯峨の清凉寺にもうでて……」の序文に始まる増鏡や、宝物集・謡曲百万にかたられていることからもうかがえます。本尊釈迦如来は、古来釈尊37歳の生身のお姿を伝えた霊像として厚く信仰をあつめています。この尊像を北宋より請来した(約千年前)開祖東大寺の奝然法橋が、尊像内に謹封した五臓六腑・願文・経巻等々(すべて国宝)の発見により、まさに生身仏であることが実証されました。おん丈は等身大の檀像で顔貌・衣文の様式等、マツラ式に似たインド古式の様相を伝えています。
釈迦堂縁起(狩野法源元信絵・青蓮院尊応法親王詞書六巻)(重文)(寄託)
この尊像の成立・中国への伝来・中国での尊崇については、奝然に随侍して入宋した盛算が開封で写した開宝寺永安院本の「優塡王所造栴檀釈迦瑞像歴記」(仏教全書遊方伝所収)に詳しく記されていますが、いまこの絵巻物には、更に尊像の日本請来・清凉寺建立・信仰と霊験の数々を加えて詳細に画き出しています。いま大要を述べますと、仏が忉利天宮へ母なる摩耶夫人のために法をときにのぼられたとき、仏によって大きな自覚をあたえられ、ともに生かされていた人々がよりどころを失い、なかでも優塡王や信者たちは、慈母に離れた子供のように寂しさにたえかねたので、王は名工毘首羯摩天に嘱して、栴檀の香木で仏の尊容を模したてまつらしめた。仏がお帰りになって自分と寸分ちがわぬ尊像を御覧になってよろこばれ、われ亡きのちは自分にかわって人々を済度すべきであると、みずから御開眼になったと伝えらています。のちに鳩摩羅琰三蔵がこの像を奉じてヒマラヤの嶮をこえて亀茲国に至り、次いで鳩摩羅什によって長安に伝えられ、更に南朝から隋唐をつうじて、楊州開元寺に奉安せられたが、唐が滅んでから一時南京にあり、北宋の統一になって都の開封にうつされ、奝然入宋のときは、帝室の廟寺である啓聖禅院に安置されていました。この歴記の内容につけ加えて、奝然は仏の真容を是非日本に伝えたいことを太宗にお願いし、香木を求め生身の釈迦の信仰から、五臓六腑等をも胎内に封じた模像を完成しました。ときに奝然の霊夢に仏がわれをともなって日本に渡れとの言葉とともに真仏と模像とが台座をかわられたといいます。かくて奝然は釈尊が親しく「摩頂開眼」せられた尊像を日本にお迎えすることが出来たのです。

 

 

開     創
この尊像の請来は、一条天皇の永延元年(987)で、同時に奝然入宋のときにできた世界で最初の大印刷物である蜀版一切経五千四十巻(現存せず)、十六羅漢画(国宝)、五台山文珠画像(現存せず)等も請来しています(小右記に詳しい)。奝然は愛宕山を中国の五台山に模して、大清凉寺の建立をはかったが、事ならず、弟子盛算が山麓の嵯峨天皇の皇子左大臣源融の山荘を仏寺にした棲霞寺内の釈迦堂に奉安したのが創めであります。
棲霞寺の弥陀三尊 (現在は霊宝館に収蔵)(国宝)
清凉寺の前身である棲霞寺の寺域は嵯峨天皇の仙洞「嵯峨院」の一部で、融公が山荘として賜ったものであり、融公は紫式部の源氏物語の主人公光源氏の有名なモデルとされています。丈六の本尊は融公の薨ずるまぎわ(寛平七年895)になったものです。(菅家文章に詳しい)。
平安初期の浄土教の教主として三尊そろった厳然たる尊容は他になく、嵯峨光仏と称し信仰されています。
開創以来の歴史
平安末から鎌倉・室町にかけて、異国的なお姿の生身の釈迦に対する信仰から、全国にわたって五十余をかぞえる模像ができ、嵯峨式釈迦像として重要文化財になっているものも多くあります。浄土宗の元祖法然上人も二十四歳の時(保元元年1156)参籠して法を求められました。弘安二年(1279)には円覚(十万)上人の大念仏がつたわり、円覚が生別の母親に釈尊の法力によって会うことのできた話は、謡曲百万にかたられています。
住僧も華厳・真言・天台・念仏と各宗にわたり、禅僧の帰依するもの多く、現に釈迦堂前の「栴檀瑞像」の額は黄檗隠元禅師の筆です。しかし尊像を中心にひろく信者勧化の実績をあげたのは、主として念仏宗の僧でありましたから、次第にその系統の人々が寺を運営する主力となり、徳川氏が浄土宗であったのを背景にして、将軍家の発願、住友家の支援による元禄の再建を経て明治には全く浄土宗に属するに至りました。

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